フィッシャー・米ダラス連銀総裁
1946年1月1日、新日本建設に関する詔書(人間宣言)が官報により発布された。戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にするため、詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げている[8][9]。1977年8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的である[8][10][11]。この詔書は人間宣言と呼ばれている[12]。しかし、人間宣言はわずか数行で、詔書の6分の1しかない[12]。その数行も、何かを放棄したりしてはおらず、事実確認を行う内容である[12]。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象もよくなった[12]。しかし、日本人にとってあたりまえのことを述べたにすぎなかったため、日本ではこの詔書がセンセーションを巻き起こすようなことはなかった[12]。1946年1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道された[13]。しかし、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、人間宣言にはほとんど触れていない[13]。天皇の神格否定はニュースとしての価値が全くなかったのである[13]。
巡幸
昭和天皇は人間宣言をした後、日本全国各地への巡幸を始めたが、
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な犠牲者を出した地上戦が行われたうえ、更に日本本土より切り離されて連合軍の直接統治下におかれた当時の沖縄県は対象とされなかった。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、1947年にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。沖縄行幸は昭和天皇の悲願であったようであり、晩年の病に際しそのことに触れられている(昭和天皇#行幸に詳しい)。
天皇と日本国外
今上天皇・皇后と米国のブッシュ大統領夫妻(2002年)1945年以前は、日本を訪問した国家元首はふたりしかいない。1881年(明治14年)、アメリカ合衆国領となる前のハワイ王、そして、1935年(昭和10年)日本の傀儡だった満州国皇帝である。
第二次世界大戦後、占領統治の終わりとともに、日本国外の国家元首や賓客が日本を訪れるようになった。1956年(昭和31年)のハイレ・セラシエ・エチオピア皇帝、1957年(昭和32年)のジャワハルラール・ネルー・インド大統領、1958年(昭和33年)のスカルノ・インドネシア大統領、1960年のアデナウアー・西ドイツ首相の来日があった。以後、他の
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からも賓客がつぎつぎに来日するようになった。[14]
昭和天皇の大葬の礼の際には、世界の163か国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れた。インドは3日間、ブータンでは一か月間喪に服した(日本は2日間)。また、明仁親王の天皇即位の際にも世界各国の国家元首が多く参列に訪れた。
米国のフォード大統領は、昭和天皇の前に立った時には足が震えたというエピソード[15]もある。
一方、昭和天皇は、第二次世界大戦で敵対関係にあった中華人民共和国・オランダ・イギリスや支配下にあった韓国などの一部からは憎悪の対象となった。たとえば昭和天皇がオランダに訪問した際に、一部の人々から抗議活動として火炎瓶等を投げつけられる事があった。
しかし大戦中に小学生であった今上天皇はそのような憎悪の対象になっておらず、国際的にも敬意を払われており、天皇が海外に訪問する際も激しい抗議が起こることはない。また、天安門事件の時に中華人民共和国が国連の経済制裁で孤立化した時に天皇の訪中によって、国際的信用を回復した事があった。
現代では、世界に"天皇"(=emperor≒皇帝)より上位の存在はなく(王は皇帝より下位とされる)、各国において最高の礼節をもって迎えられている[16]。今上天皇が1994年6月にアメリカを訪問した際には米5軍(陸海空軍・海兵隊・沿岸警備隊)による観閲儀仗が行なわれた。
1965年の秋篠宮文仁親王の誕生から2006年の悠仁親王の誕生まで男性皇族が誕生していなかったため、皇位を継ぐべき男系男子が不足しており、皇室典範に定める皇位継承者が存在しなくなり、皇統が断絶する可能性が出てきた。そのため、皇室典範を改正し、女子や女系の者にも皇位継承権を与えるか、旧皇族を皇籍に復帰させるなどして男系継承を維持するかの論争が起きている。
国体論争
大日本帝国憲法では、天皇は統治権の総攬者とされていたのに対し、
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では日本国・日本国民統合の象徴とされ、かつ国民主権原理を採用したため、日本国憲法の制定により日本の国体が変わったか否かについて起きた論争。特に尾高・宮沢論争と佐々木・和辻論争が有名。
国家元首としての天皇と憲法改正
自民党憲法改正試案、民主党鳩山氏憲法改正試案、民主党小沢氏憲法改正試案、6省庁を主務官庁とする中曽根元総理属する財団法人世界平和研究所憲法改正試案が、国家元首を天皇と規定している。衆議院憲法調査会や参議院憲法調査会では、天皇の地位に関して現在も議論中であり、結論は出ていない。読売新聞憲法改正試案では天皇に関する規定は現状維持としている。
701年の大宝令、757年の養老令など、律令には皇親(こうしん)として規定。俗には王氏(わうし、おうし)とも呼ばれた。
律令では、親王と王の別があり、とくに性別を分ける記述はないが、女性はそれぞれ、内親王、女王と称せられた。親王号は古くは天皇の子および兄弟姉妹の称であったが、のち親王宣下を受けたもののみに限られるようになった。親王は品位を受け、品によって国家から給田を受けた。
「官位令」によれば、品位には一品から四品までがあり、それぞれ国家から決められた給付を受けた。また任官においても、八省卿(八省の長官)、大宰府帥、一部の大国の国守など、四品以上の親王に
為替
された官職があり、高官を保障された。いっぽう品位をもたない親王は無品親王といった。罪を得た場合、罰として品位の剥奪が行われることがあった。
皇親の範囲は、「継嗣令」の規定では天皇の四世孫までが皇親とされ、五世孫は王を称したが皇孫にはあたらないとされた。のち慶雲3年(706年)2月の格で、五世孫までが皇親とされ、五世孫の嫡子に王の称が許された。なお、近代の皇族制度とは違い、婚姻によって皇親身分を獲得したり喪失したりすることは無かった。従って、光明皇后(藤原氏)のように、皇后であっても臣下の家の出身者は皇親とは認められず、逆に藤原教通に降嫁した℃q内親王の様に臣下に降嫁後に二品叙位を受けた例も存在する(『扶桑略記』長久2年12月19日条)。
令では、皇親でないものは、姓を賜って臣に下ることが規定されていた。最初の賜姓がいつであったかはさだかでないが、初期の賜姓皇族として橘氏がある。敏達天皇の子孫であった葛城王(橘諸兄)と佐為王(橘佐為)は、聖武天皇の天平8年(736年)に臣籍降下を申し出、母県犬養橘宿祢三千代の氏姓を願い、橘宿禰の氏(うじ)・姓(かばね)を賜った。のち、平安初期以降、皇親を減らして国家の支出を減らす、皇位争いに関する政争を除く、皇室の藩屏となる高級貴族をおくなどの目的で、多くの臣籍降下が行われた。
後一条天皇の時、皇太子敦明親王が皇太子辞退を申し出ると、親王の男子(三条天皇の孫)に特に親王の称号を許して以後厳密な規定がされなくなり、孫以下の皇親でも天皇の養子・猶子となって親王の待遇を受ける事が可能となった。後にこれが世襲化されたのが世襲親王家のルーツと言われている。
江戸時代以降、四親王家から構成されるようになった。伏見宮、有栖川宮、桂宮(現桂宮家とは無関係)、閑院宮の四宮家は世襲親王家として代々各宮家の王が天皇の猶子(養子の一種)となり、親王宣下を受け世襲した。